副住職でございます、数あるサイト、ページの中、大龍寺にご興味をお持ちいただき誠にありがとう存じます。
ここではお檀家様にご質問をいただいたり、日々の生活の中感じたことなどについてご説明申し上げるページでございます。
ご興味がおありの方は是非眉につばをお付けになり、ごゆるりとご覧くださいませ。(挨拶)
さて、供養と申しますとどんな印象をお持ちになりましょうか?お坊さんがよく解らんお経唱えて、お焼香済んだらすることもなく、正座の我慢大会で、と。極端に申しますとこのような印象の方もいらっしゃるかもしれません。
供えて養うと書いて供養ですから、お供え物で仏さんを養っているから供養というのかというとそうではございません。何かを提「供」することで自らの心を修「養」するから供養と申すわけです。
現代に於いて供養と申しますと故人に対して我々生きているものがお線香をあげたりお経を唱えたりということが供養であるという位置づけとなっておりますが、生きている我々同士でも供養と言う行いは成り立つものでございます。
だれか自分以外のために何かをして差し上げる。ですからお父さんにお茶を入れてあげることも、お母さんの肩を揉んであげることも、また当然ご先祖さんのご法事を行うことも、同様に「供養」となるわけです。
では、供養とはいったい何なのかと申しますと、言わば心のトレーニングであるわけです。体は日頃から動かし、鍛えておかなければいざという時に動きません。心も同様でございまして、日々動かし、鍛えておかないとどんどん鈍くなってしまいます。
心が鈍くなりますと、人の想いが解らなくなり、外界の情報を上手く受け取ることができなくなります。所謂「空気が読めなく」なり、感動することができなくなります。「おじゅっさん。最近感動することがありませんなあ」なんてことをよく耳に致しますが、感動することが少なくなったのか、自分の心が鈍くなっているのか、お盆お彼岸ご法事などの御供養の機会というのは、そういったことを一度立ち止まって考えるべき絶好の機会ではないかと存じます。
さて、では一般的に申します「ご法事」などがどういった意味合いになるのかと申しますと、このような追善の供養を私共では回向(えこう)と申します。向こうに回すと書いて回向でございます。つまりこちらの世界、現世で読経や焼香や、様々なことで積んだ功徳を、向こうの世界にいらっしゃる故人にお回しする、という法会であるわけです。
これらは私見ではございますが、この回向の供養と申しますものは、日々のご供養というものと、折にふれてのご法事といわれるようなご供養と、二つが相まって完成していくのではないかと存じます。
日々の供養とは申しましても、毎日毎朝必ずお仏壇にご飯とお茶を備えて、これこれこの様なお経を必ず唱えなさい、と申し上げるわけではありません。余裕があれば是非そうしていただきたいところですが、ご自身の生活を圧迫してまでお供え物を行うなどという行為をご先祖さんや故人様が喜ばれるはすもないと思うわけでございます。
またご供養とは墓前や仏壇の前など、そのために設えられている場所で行うのが一番良いのは確かですが、そうでなければ意味がないわけではございません。
我々が何処にいても、何をしていても、ご先祖様や仏様が我々を見守ってくださっている。もしそうであるならば、それが一方通行になるはずがございません。我々がどこから祈っても通じるということになりましょう。
ですからお仕事しながらでも結構です、御台所で作業中でも結構です、或いは一日が終わり、お布団にもぐりこむ瞬間、そんな瞬間でも結構です。或いはまさに今、ディスプレイの前からでも結構です。
心の中で手を合わせて頂いて、ご先祖さまに対して心を向ける。御蔭さまで元気でやってますと心の中で思う。それはご先祖様にとって何よりうれしいことなのではないでしょうか。
しかしながら、仏様、ご先祖様方が我々をお守り下さる、それは何かの見返りにそうして下さるわけではございません。皆様がご健康でお幸せであるようにとお守り下さるわけでございます。で、あるならば、まずは何よりこれを御覧のあなた自身がお元気でお幸せであることが何よりのご供養である、ということに為るわけでございます。
どうかご自愛を賜り、日々お過ごし下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
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